タイタニックでサンデーを

沈みゆくタイタニックでも、サンデーパフェはサンデーだ。

チーノ・一番好きなのは面白いところと答える彼氏

 

 

これはほんと、ただのノロケなんですけど。

嬉しかったしずっと覚えてたいので書きますね。なんか、ザ、ブログって感じで。

 

社会人になってから、一年に一回は絶対肌が大荒れするようになりまして。今年は夏に大盛り上がりでニキビがパーティーしてましたね。それで最近はやっと治ってきたんですけど散らかしっぱなしで行くもんですから、まだスッピンでは到底外は歩けない感じ。

 

あれ?5月とかまでは日焼け止めにパウダーはたいて外出れてたよなー?とか思いはじめると、どんどん病んできてしまい、、。

 

そのことを、ふと彼氏に話したんです。どんなに肌が荒れてても嫌いにならないで、見て見ぬふりしてねって言って。

 

 

「痘痕もエクボって知ってる?」

って言われました。

なにそれと思って調べたら、好きな人ならどんな欠点があっても顔が醜くても美人に見えるって感じの意味。

 

聞く人によってはオイオイって感じだけども、私が欲しかった言葉はこれだったんだなとひどく安心しました。

持つべきものはルッキズムから解放してくれて、何があっても味方でいてくれる人やな。

 

痘痕にエクボ、この言葉はこれからの私の人生を支えてくれるキーワードになっていくんだろうな。

 

そんな感じで、ひとつの記念日日記でした。

 

チーノ

チーノ・何かするわけでもなくただ考え事ばかり

 

 

いつか本で読んだ『人は寂しさを感じないと誰かと一緒になろうとしない』故に、政府が画策してインターネットを全国的に遮断してしまうって話をよく思い出す。フィクションなんだけど、インターネットから離された若者たちは思惑通り、誰かとの繋がりを求めて街へ繰り出し少子化問題が解決されるというオチ。よくできた話だしリアルのことな気もするし。なんだか思い当たる節が1年に3回ほどはあって、そのたびふとこの話が頭によぎる。

 

 

人の原動力は寂しさだと思う。私は高校生の時から美術を専攻し、絵を7年間は描き続けていた。そのとき筆をノらせてくれるのは寂しい気持ちだった。放課後の教室、ひとりで描いていたとき。自分の思想は絵にしないと誰にも伝わらないと感じていたとき。ひっそりと想い人へ当てて描いたとき。誰かに認めてほしかったり共感してほしかったり、ダサいけど、そういう気持ちがパワーになっていた。みんなだってきっとそうだと思うんだけど。

 

今はあまり絵を描いていない。美術とは無縁の仕事に就いたし、良い人と出会って寂しさを感じる生活を送らなくなったから。自分の心のストックには、ふつふつと湧き出るナニかはもうないような気がする。

 

その話では、インターネットのおかげで家に一人でいても寂しさを感じなくなった若者たちが描かれていた。いつだって人と関わりを持つことができる生活に若者たちは満足していたんだろうな。バーチャルでも誰かがそばに居るような生活に満足していたって、アナログが失われた生活ではきっと、私は不満を持つことになりそうだ。

 

短編集の中の話ひとつでココまで考えられるんだから、作品は産まなくとも感性は自分の中に残ってるってことで、創作のない生活に寂しさを感じることもないのかもしんない。

 

 

 

チーノ

解ける夏

靴紐が解けたとか、他人の溜息とか、茹だるような暑さとか。どうでもいいことがきっかけでプツンと糸が切れて、ふとどこか遠くへ逃げ出したくなる。


それなのに、本当にピンチな時ほど意外と冷静に対処できてしまって。助けを求めたい時に、何でもないふりをしてしまうの人生で何回目だろう?つくづく可愛げのない人間だと、自分で自分が嫌になる。


雨は好きだけど、夏の雨は嫌い。晴れはもっと嫌い。でも、夏の夜はなぜか好き。そういえば花火と夏祭り、今年はどちらもまだだった。


そんな今年の夏、ついに私は逃げ出してみた。会社と家の往復と、見飽きたいつもの景色から。初めて一人で飛行機に乗って、唐突に韓国まで旅に出た。言語すら通じず、誰も私を知らない場所なのに、何故だか心地良い。とはいえ当てが無いわけではなく、夜には現地にいる友人と合流する。韓国語がペラペラな友人は、観光客のいない店にも連れて行ってくれるので、より本場を満喫できた。いつもの景色から逃げたことで、固まっていた私の心は解けたのだった。

 

初日の夜に、Nike AirMax 97を買う。日本で見つけていてもきっと購入までは至らないはずなのに、不思議と直感が働いた。帰国してからも、足元を見るとあの日の記憶が蘇ってくる。この靴の紐なら、立ち止まってゆっくりと結び直せるような気がする。

 

 

f:id:sundae_at_titanic:20240111223750j:image

サンデーズ・オン・タイタン

みなさんはじめまして、ゆとりです。

 

独り言が多い人っていません?

僕も結構、独り言が多い人で、自室なんかの居心地がいい場所では僕とボクが話してるくらい、1人で喋ってるんですよね。

ちょっと病的だなって思われても仕方ないんですけど、僕的にはかえって、デトックスになってるんですよね。

 

1個、気づいたことがあって、人ひとりの身体の中に入れておける感情や論理って決まってるんじゃないかな、と。

バケツくらいの人もいれば、コップ一杯分の人、はたまたダムみたいに、じぶんで全部許容できる人。

たとえダムのようにじぶんの気持ちを貯めておけるひとでもやっぱり、ときどきは放出しないといけない訳で、肝心なのはその許容量じゃなく、放出の方法なんですよね、たぶん。

村上春樹が2021年に母校の早稲田大学入学式で送った祝辞のなかで、

 

 「心を語る」というのは簡単そうで、難しいんです。僕らが普段、「これは自分の心だ」と思っているものは、僕らの心の全体のうちのほんの一部分に過ぎないからです。つまり、僕らの「意識」というのは、心という池からくみ上げられたバケツ一杯の水みたいなものに過ぎないんです。残りの領域は、あとは手つかずで、未知の領域として残されています。僕らを本当に動かしていくのは、その残された方の心なんです。意識や論理じゃなく、もっと広い、大きい心です。 では、その「心」という未知の領域をどう探り当てればいいのか。自分を本当に動かしている力の源をどうやって見つけていけばいいのか。その役割を果たしてくれるものの一つが、「物語」です。 

 

村上春樹研究所

https://www.haruki-m.com/news/news176.html

より一部抜粋

 

こんなことを言っていました。さすがですね。話は戻りますが、独り言が多い人って、知らず知らずのうちに、彼のいう心の「残りの領域」を汲み上げてるんじゃないでしょうか。吐露とも言いますように、心のバケツは溢れてしまうこともあるでしょう。そこでこのブログを作ろうと思い至ったのです。どうせやるなら、1人で吐き散らかすよりも、おんなじように、心のバケツがいっぱいに湧き散らかしてる友達を誘おうと思い立ったのです。ちょうど喫茶店で、くだものとクリームを溢れ散らかしてるサンデーパフェを食べてるときに。

 

なので、誰かに見てもらおうみたいな、筋道の通った文章ばかりじゃないかもしれないけれど、このブログを読んで、「あぁ、感じてること、書いていいんだ」くらいの勇気をおすそ分けできたら、幸いですな。

 

ゆとり

 

↑3人でつついた、京橋の喫茶店のサンデー